|
||||
| サッカー | プロレス | 格闘技 | 野球 | ノンジャンル | ターザン | ||||
| イビジェカフェトップ > ターザンカフェトップ > 今日のコラム[2006年12月21日(木)] | ||||
|
追悼・井上編集長。
・プロレスだけが人生だった人である。新大阪新聞社に入社してからは社会部の記者になり、そのあと運動部へ。そして…。 12月13日、午後1時頃、ボクにとって人生の最大の師である井上義啓氏が亡くなられた。 胃ガンになったということはボクもきいていた。 この秋、ボクはその井上さんを大阪まで訪ねて行こうとしたが、ついに行けなかった。 人はいつか亡くなるものだとはわかっていても、いざ死を知らされると言葉がない。 プロレスだけが人生だった人である。 新大阪新聞社に入社してからは社会部の記者になり、そのあと運動部へ。そして最後は『週刊ファイト』の名物編集長として活躍。 ボクは昭和52年(1977年)の1月から昭和55年4月までの3年間、井上編集長の下で働いた。 『週刊ファイト』が記者を募集した時、ボクを取ってくれた人が井上編集長である。 当時、70人近いファンが応募。なぜか31歳のボクを採用したのだ。 ほかに若い人はいっぱいいたのに…。それがボクのその後の人生の運命を決めた。 今、ボクがあるのはすべて井上編集長のおかげである。ファイトの記者になった頃は花の凡くら記者≠ニいうニックネームを編集長からいただいた。 ボクがベースボール・マガジン社のプロレス編集部に移ると言った時、実は一番、かげで喜んでくれたのは井上編集長なのだ。 だからボクは井上編集長のかわりに東京に出て井上イズム≠プロレス界に広めていくんだと心に決めていた。 井上編集長ができなかったことをボクがやる。それが最大の恩返しであり、そのことは井上編集長も望んでいたことである。 『週刊プロレス』の編集長になった時、初めてボクは井上編集長との約束を果たすことができた。 その後、年賀状をいただくたびにつれ「君、いいからもう君は小説を書きなさい。そっちの道へ進みなさい」と書かれていた。 悲しいなあ。ただそれだけである。合掌。 |
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||