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| イビジェカフェトップ > ターザンカフェトップ > 今日のコラム[2005年05月11日(水)] | ||||
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高橋尚子の独立について。
女子マラソンの高橋尚子の独立にはいろんなキーワードが見てとれる。まず考えられることは師弟関係を解除したことである。 これは日本社会ではいいイメージがない。そもそも師弟関係という呼び方そのものが日本的だからだ。 あらゆる人間関係はたとえそれが教える側と教えられる側であっても、最終的にはビジネスと思った方がいいのだ。 そのビジネスとはドライな金銭感覚のことではない。あるいは利益を中心とした関係のことでもない。ビジネスとは要は両者が得する関係、ハッピーな関係のことをいうのだ。 そのベースにあるのはお互いが対等な立場にあることだ。それがビジネスの基本である。 師弟といったら対等な関係ではない。だから師弟が別れた時は、どうしてもいいイメージが残らないのだ。 しかし師が男性で弟子が女性の場合、これは弟子の立場にある女性の側にとって特別な意味があるのだ。 それは何かというと彼女たちは師は自分だけを見守ってくれるものと思い込むからだ。 この自分だけを≠ェ大事なのだ。高橋尚子もそのためだけに42.195キロを走っていたはずなのだ。ほかにはどんなモチベーションもないのだ。 女性は好きな人にはいつも自分だけに目を向けていて欲しいと思うもの。そこに彼女たちの絶対的アイデンティティがある。 これは愛における依存症とは違う。彼女たちはQちゃんに限らず、小出監督には自分の練習をずっと見て欲しいと思っている。できることなら監督を独占したいとさえ思っている。 そうしないと彼女たちは走れないのだ。いや走らないだろう。42.195キロをひとりで走るのはあまりにも孤独すぎる。 ただ優勝したい。金メダルを取りたいという気持ちだけでは、その孤独にはとても勝てない。 監督という自分にとって特別な人がいると思った時、初めてマラソンは完走できるのだ。 ・日本における女子マラソンのポイントは師と選手の奇妙な擬似恋愛関係にある。 |
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