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天才射精 |
2月2日(火)
ウン、今日も充実した1日だった。別に何かがあったというわけではない。すべては気の持ちようだ。
しょっぱさからの脱出。そしてあらたな挑戦。そのためには一度、すべてをリセットする必要があるのだ。
御破算の思想である。一つの成果として体重が75キロを切った。74.8キロ。今年の始めに一時、銭湯ではかったら98.4キロあったのだ。
テーマは捨てるである。全部、捨ててしまえだ。しょっぱいとは捨てられないことなのだ。そのことがようくわかった。
さて、自分にとって記念すべき2010年2月1日、私に電話してきた4人には感謝したい。ひとりは映画「アバター」を見に行ったよという報告。
残り3人は友人。人生において友達は大きな財産の一つである。これは重要だ。彼らとの会話は勇気、元気、やる気の三つの“気”をお互いに触発させることである。
そうすればそこに希望と向上心がわいてくる。友人との関係はそうあるべきだ。
4人のうちのひとりがその時、映画のチケットを送ったという。それが今日の朝、午前9時過ぎ速達で届いた。
映画の名前はあえて書かない。たとえその映画を見てもまだ日記には、映画の感想や批評は載せないで欲しいというのだ。
わかった。何か考えているな。よし、その仕掛けにのってやろうではないか。面白い。というわけで私は送られてきた前売り鑑賞券を持って、さっそく夕方、指定された映画を見てきた。
これは語れるね。そういうことか。一つだけ提案したい。映画のチケットを送るよりも千円札一枚を手紙で送った方がいい。
なぜなら60歳以上はシニア料金になるからだ。その時も飛んで見に行く。
プロレスにたとえると必殺技を次々にラッシュして、フォールを奪いにいく時と同じだ
「罪と罰」。第4編に突入。ここで米川正夫訳から工藤精一郎訳の新潮文庫に換えた。
たしか3、4年前、私に「罪と罰」を読めといってそれを送ってきた人がいたことを、急に思い出したのだ。
それで探したら上巻が見つからず下巻だけ見つかった。あれ、こっちの方がたしかに読みやすい。
方針変更だ。ドストエフスキーは文体に注目しろ。「罪と罰」という重たいタイトルにまどわされるな。
そんなのはどうでもいい。小説は文体論がすべてだ。それはどういうことかというとドストエフスキー自身がそうなのだ。
この人、何も考えていない。自分の文体に酔っている。何もかも勢いで書いている。第4編の中で殺人者のラスコーリニコフが、娼婦のソーニャに「オレといっしょに逃げてくれ」というシーンがある。
この場面を書いているドストエフスキーは、完全に作者としてアドレナリンが爆発。ほとんど射精状態に近い。
プロレスにたとえると必殺技を次々にラッシュして、フォールを奪いにいく時と同じだ。
これをハイスパートという。ハイスパート的文体。小説に意味なんか求めるなである。いや、意味は始めからない。そうだ、そうなんだよ。
「罪と罰」は音楽だ。文体が一つの心地いいリズムになっている。まるでモーツアルトだ。
モーツアルトは五線譜に、ドストエフスキーは原稿用紙に。それだけの違い。2人とも手が動き出したらどんどん書いていく。
さっきのラスコーリニコフの「オレと逃げて!」のところは、モーツアルトでいうとその文体はテンポと景気のいいトルコ行進曲だ。
私はモーツアルトの作品の中でトルコ行進曲は傑作だと考えている。あのメロディを口ずさんで欲しい。すごいだろ。気持ちいいだろ。
あれだよ、あれ。ドストエフスキーはモーツアルトなのだ。天才の脳に意味は二の次だ。ただ脳は快感あるのみ。
2人の脳は射精しまくっている。そうでないとあんな文体、誰が書けるんだよ。今日の“四字熟語”は天才射精にする。
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